
ヒトの身体こそ完璧なのかもしれない
私は普段訪問看護師として
さまざまないのちの終わりに出逢います。
病院時代の『死』はとても怖いことだったし
その怖さも いのちが終わることの怖さというよりも
自分がその場面にあたってちゃんと対応できなかったらどうしよう?という自分が仕事として責任を背負うことへの怖さの方が大きくて逃げよう、避けようとしてきました。
なによりも人が死ぬこと。この世からその人の身体も心も声もなくなってしまうということを想像できていませんでした。
命を救うべき看護師の私にとっては、死はタブーであり、遠ざけるべきものであり、忌み嫌うものでした。
産まれてきたら必ず 100%人は死ぬということを直視することなく
救うことは学んでも、うまくいのち終えるため着地していくことは学んできませんでした。
なので私が見てきた医療や治療は
その人の生きてきた背景を考慮して、生きることの質を問いながら、治療を選択してもらうことよりも
命の時間をできるだけ長くすることしか、選択肢がなく
過剰な点滴や栄養が
お腹や胸や身体に水がたまり、むくんでしまうことになったり
痰が増えて吸引という処置が必要になってしまうなど
身体に負担のかかる医療があるということは、考えもしてきませんでした。
しかし訪問看護という仕事に出逢い
過剰な点滴や医療をしなくても
最後まで家族のつくったご飯を口にすることができたり
たとえ食べられなくなったとしても
不要な吸引や浮腫みなく
ほんとうに枯れるように
でも とても美しいままで、いのちを終えていく方々に出逢い
医療のありかたを、根本から考えさせられる体験をしました。
すべての医療がいらないのではなく
感染症や手術など医学の発展のお陰で救われる命があるのも事実です。
医療に携わる仕事をしているということは
医療のメリットだけをおしつけて、こちらの思い通りにコントロールするのではなく
デメリットもきちんとわかった上で示して
今 必要なのは何か?きちんと選べるように選択肢を誠実に手渡すことが求められます。
さらに医療を受ける側も素人だから おまかせではなく、自分の責任と判断のもと
必要な医療や治療を、自分が 選んで、自分が 行動していくという感覚を、育んでいくことも大切になります。
ヒトの歴史をみてみると
旧人類が登場したのが、大体50万~30万年前くらいといわれており
そこからでも もう 人類の歴史としては50万年くらいまえから
人々が産まれて、死んできたわけです。
医療の進歩や発展なんて、ほんの百年ほどのものだとしたら
50万年もの歴史のあいだ医療もつかわずに産まれて死んできたということで
ヒトは、おそらく遺伝子のなかに
きちんと
産まれて生きて死ぬ ためのプログラミングも進化も、してきているように思うのです。
そうだとしたら、死ぬ力もきちんと 完璧に、私たち一人ひとりの身体のなかに備わっているのではないか?と思います。
まさに在宅での看取りは医療の力も借りますが
それよりもなによりも
自らが自らを癒して 生きる力と
家族や大切な人たちが癒して 生かす力を発揮しつつ
身体的な痛みや苦しみは西洋医学の力をうまくかりながら
完璧に死ぬ力も最期に見せてくださいます。
たくさんの大切な人に囲まれて旅立ちたい人はそんな時間や環境を選び
二人きりのお別れをしたい人はちゃんとお別れをしたい人と過ごす時間を選んで旅立たれます。
だれにも迷惑をかけず自分のペースで逝きたい人は家族のほんのわずか目をはなした時間に旅立たれます。
人の身体こそ完璧なのかもしれない
そう 信じさせてくれるような旅立ちに
ご縁をつないで 紡いで出逢ってくださった
たくさんの人生の先輩方から
人の死も自分の死も
みんな行く道なんだから
なんとかなるよ~
大丈夫!!と
言われているような。
そんな
身体のしくみも 生きる姿逝く姿で教えてくださいます。
教科書にもないし
死にゆくプロセスなんて死んだヒトにしか語れない話かもしれないけど
それでも訪問看護の仕事をとおして、ヒトの希望や可能性を日々教えてもらえる毎日が、面白くて、有り難くて、尊くて、幸せでたまりません。
これからもまだまだヒトの身体の神秘にふれつつ
現実の毎日のなかに仕事をとおして
安心や信頼を増やしていくお手伝いをしていきたいと思います。
そして今 目の前にある
あたりまえのいとおしい今日を
限りあるいのちの時間を重ねられている奇跡に感謝しながら
お一人お一人のもとに今日も向かいます♪